2018-06-07 第196回国会 参議院 文教科学委員会 第14号
○松沢成文君 皇室の行う神事、祭事なんというのも私は日本文化のルーツだと思っていまして、また歌会ですとか雅楽ですとか、あと蹴まりですとかあるいはカモ猟とか、こういう伝統行事も今でも残っているわけですね。また、大臣御指摘のように、皇室ゆかりの様々な美術品等々は、正倉院ですとか三の丸尚蔵館ですか、に展示をされて保存されているというわけですが。
○松沢成文君 皇室の行う神事、祭事なんというのも私は日本文化のルーツだと思っていまして、また歌会ですとか雅楽ですとか、あと蹴まりですとかあるいはカモ猟とか、こういう伝統行事も今でも残っているわけですね。また、大臣御指摘のように、皇室ゆかりの様々な美術品等々は、正倉院ですとか三の丸尚蔵館ですか、に展示をされて保存されているというわけですが。
本人はカモ猟のための網を仕掛けた、この網に名札が付いていたわけですが、網に掛かったカモを食害するイタチを排除するために網の周辺にとらばさみを掛けたと、こういうふうに主張しています。
それはそれといたしまして、先ほど先生の御説明にございましたように、この猟期変更は、実質猟期を長くするのではなくて、十五日早めるかわりに南の方よりはおしまいを十五日短くする、一月末で終わるということでございますので、トータルとしてはカモ猟がこれによってそんなにふえるということは私どもは懸念しなかったのでございますが、やはり環境方面からは、こういうふうなことをするとカモの狩猟数が急激にふえるのじゃないか
宮内庁のカモ猟もあるんですが、どういうわけかあの長官から一切行かなくなったというのだけれども、そんなものじゃないんだな。狩猟関係を放ってもいいかといったらそうじゃないんだ。
海老取川なんという名前も、これはおわかりと思うのですけれども、土砂やあるいは多摩川の上流から運んだ土、そういうもので多くの池や沼や鴨場、当時カモ猟の場なんというのがありまして、その一番北のところにあるでしょう、その鴨場なんというのも埋めて平らにして、コンクリートでつくってしまった。そのコンクリートの下にそういう思いがいっぱいあるわけですね。
埼玉鴨場についてでございますが、昭和四十四年に越谷市から参観の申し入れがございまして、当庁といたしましても、カモ場の管理運営につきましては地元の方々の御理解と御協力をいただくことがぜひ必要であるというような考え方を持っていたことでもございましたので、カモ場の管理運営に支障のない時期を選んでこれを受け入れることにいたしまして、四十四年以降現在まで行っているわけでございますが、やり方といたしましては、カモ猟
それから例の張り網、これはカモ猟用のものが主としてあるわけですが、カモ以外の禁鳥がかかる例が非常に多い。これは禁止すべきではないか、こんなふうに思いますが、その点はどうですか。
○国務大臣(山田久就君) カモ猟の問題は、私は今回は参っておりませんけれども、具体的な問題についてというお話、非常に詰められるとあれでございますけれども、やっぱり私は、自分の経験で言えば、たとえば国の狩猟区の問題は、私も外の生活が長いものですから、結局全部を禁猟区にして、さかさまにやれというやり方、どうしてそれがやれないのかという点、実は、私はこの法案をやるについては、いろんな点でそれを詰めてやりまして
一月十八日には、宮内庁のカモ猟に私は行かない、無益な殺生はしたくない、こういう形で非常に皆の関心を呼ぶような発言をしておるわけですけれども、しかし、東京湾道路問題では、鳥より飛行機優先と発言して、その後、発言を撤回するというようなことが起こっております。日光バイパス建設の承認がその日になされておるわけであります。
○宇野(亨)委員 カモ猟の問題は二カ所あるわけでございますけれども、ただいま次長の説明で、自然保護、環境保全、野鳥の保護ということについて非常に成果が上がっておるということをお聞きしまして、私どもは非常に安心をしたわけでございます。何かわれわれ庶民の感覚では、本当にわれわれと遊離しているようなもんだというような直感がいたしておったようなわけでございます。
カモ猟の問題でございます。これは千葉県の新浜、埼玉県と二カ所ございますが、この問題が先般新聞紙上でも報道されましたし、何か閣僚の方々も大分御招待をいただいたそうでございますけれども、見えられた閣僚は少なかったというようなことがございました。カモ猟のあり方についてお伺いいたします。
カモ猟のほうの関係は、あそこの船橋のほうに一カ所、それから越ケ谷に一カ所残っているわけでございます。昔は、御承知のとおりに宮内省に狩猟官というのがおりまして、日光とか、富士の裾野とか、天城山とか、ほうぼうに猟場がございまして、猟をしたものでございますが、これはたしか一木宮内大臣のころに廃止になりました。
そこで、特にカモ猟のことについて私はちょっとお伺いしておきたいのですが、特に鳥類の保護の問題については、これは環境庁等でも最近非常に重要視してきております。特に、たとえば琵琶湖とか、東京都におきましても、鳥類の保護につきましては相当努力を払っているようであります。
いずれにしましても、カモ猟は続けるけれども、要するにとったらすぐ放す、環をつけて放すということですね。それで、前におみやげで持って帰ったり、あったでしょう。ああいうことはやらない、そういうことですね。要するに食べるというか……。
きょう、ある新聞で、長官は、宮中恒例のカモ猟に欠席をするのだということを御発表なさっておるのですが、事実であるかどうか。その長官の非常に次元の高い意図がどこにあるのか、その点をお聞きしたいと思います。
私は、前にもカモ猟に御招待を受けて、参ったことはございますが、近ごろ考えまして、やはりあのようなカモ猟には出席したくないと、これは個人的な感情でございます。理屈も何も、たいしたむずかしい、高い次元のものでも何でもない。自分の考えとしては、自分の経験に徴しましても、あまり行きたくないという考えを持っておっただけでございます。
それから千葉県の行徳でございますか、カモ猟なんかの行なわれている、野鳥がまだよく来ているような緑地があるそうでございますが、これが実は前面埋め立て、後面は宅地開発のスプロール現象に脅かされている。どうしても千葉県のほうでこれをすみやかに買い上げたいという要望が強い。
○木原(実)委員 もう一つ、新浜のことについてですが、これはいまのところああいう形で千葉県のほうも何か施設をやる、こういうことですけれども、あそこのカモ猟の利用の度合いはどうですか。以前に比べて利用度は非常に少なくなっていますわ。
宮中のほうの行事としてカモ猟をやられるのは、生物をあわれむということからどうも反するからやめたらどうかというような声を聞いたことはございます。その際にも、いろいろ皆が集まって相談もしたりしたのでございますが、しかし、引き続きやっておるわけであります。
○玉置分科員 御料牧場のお話が出ましたので、ついでで恐縮ですが、カモ猟につきまして。 かつて英国のアレキサンドラ内親王ですか、おいでになりましたときに、あのような捕獲の方法で現地でこれを食べるということは非常にちゅうちょされたというように、当時報道機関で承っておるわけであります。
市川市から浦安町、前の干がたで、そこには宮内庁のカモ猟の御猟場があるところでございます。で、その周辺が、いま産業開発という目的で埋め立てがどんどん行なわれようといたしております。
そこで、沿革を申しますと、昭和十七年以来は川岸に水をあげる揚水ポンプを設けまして、そして特にカモ猟の時期においてその用水ポンプで池のほうへ水を入れておったわけであります。しかし、その揚水ポンプで池のほうに水を入れなくても、平素もある程度の水はあったわけであります。ところが、本年の三月ごろから川水が急に減りまして、四月の七日には池の水が完全にかれたのであります。
○政府委員(瓜生順良君) カモ場につきましては、そういう広さがありますが、あそこは一般に開放といっても、あそこはいくらか草っ原のところもございますが、いまのところ特別に一般開放ということは考えていませんが、しかしカモ猟の時期以外でも、皇室関係に関連したいろいろの接待の場所などには使っていることがございます。いまの先生のおっしゃった点については、さらに検討してみたいと思います。
しかし著しく減ったために、接待用その他のカモ猟ができないという状況にはなっておりません。
たとえば天皇の大使、公使に対する接遇という以外に、対外的には外国から公的な賓客がお見えになる、また外国の使臣を接遇されるという外国との交際行為でございまして、従来も国賓、公賓等を皇族が空港において迎えられるとか、あるいは接伴皇族として接伴に当たられる、あるいは宮中の招宴、宴会等に出席される、あるいは外国の大公使を招かれて宴会をされる、あるいはカモ猟等においでになられる、さらにまた外国大公使の催される
それから外交団のカモ猟とかアユ漁とかいうふうな接待的な意味の経費が入っておりますし、それから植樹祭あるいは国体等においでになります場合の行幸啓の関係の費用が入っておりますことと、それから東宮さまの御地位からいたしまして、御進講あるいは行啓等の東宮関係の費用、それから国賓接伴の関係の費用というのが公的御活動の関係の費用として入っております。
これは要するにカモ猟としてお客を招いての使用の回数であります。よく新年のいろいろ公儀の前に、おいでになるお客に出すためのカモなんかを準備するために職員としてとるのがございますけれども、これはこの回数には入っておりません。 七、皇居内勤労奉仕者の一年間における男女別人員及びその団体名。一、昭和三十七年中の参加人員は、男では三千二百八十六人。